藪光生先生の「和菓子」Japanology WAGASHI
角川文庫から、本年1月に発行された 藪光生 先生のご著書
ジャパノロジー・コレクション 和菓子 WAGASHI を読みました。
うっとり、思わず手を伸ばしたくなる美味しそうな和菓子の写真の数々、文庫サイズなのがもったいない。その和菓子を慈しむような柔和なまなざしで、一つひとつの説明を書いていかれたであろう藪先生の表情が浮かんできます。
そして、それらの和菓子より、私が心ひかれたのは本文です。和菓子や食材、菓子の歴史などについての博学なお話は、愛に満ちていると感じます。
豆や粉類、砂糖をはじめとする数々の食材をとことん研究し、自らもその手で和菓子を作られ、おそらく喉がヌルヌルになるくらい甘いものを食べ尽くし、そしてまた食べて、うんざりするくらい食べて、それでもなお和菓子を愛してやまない。そんな息づかいが伝わってきます。
生産者さんを敬い、和菓子職人を広いこころで見守り、甘党な消費者たちを言葉ひとつで先導し‥‥ 私だってこの本を読み始めて、訪れるのは洋菓子店から和菓子店に戻りました。
甘くやさしい、その日限りのご褒美は、季節を連れてくる案内人です。手のひらにすっぽり隠れてしまいそうな小さな塊の中に、四季の彩りや縁起、願いや祈りなど様々な空想の世界が広がります。
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以下は、藪光生 先生の文章から
◯和菓子には業界用語で「口溶け」という言葉がある。餡は見た目では粘り気があるように見えるが口の中に入れるとさらりとして、すっと消えてなくなる。その独特の感覚のことを「口溶け」を持っているというが、これも触覚のひとつである。(P72)
◯同じ畑で収穫されたものであっても、そこにはまだ充分に育っていない豆や、乾燥が過ぎてしまう豆など、様々な小豆が存在することになる。勿論、収穫の適期に収穫したものか、適期からさらに一週間〜十日遅れて収穫されたものかによっても品質に違いが出てくる。
さらに言えば、土壌要因や畑の立地によっても当然品質は微妙に変わる。そうした様々な豆をいちどきに炊いても良い餡は作れないので、色や粒形、粒大を揃えるように選別をする。そして、等級が決められて出荷され、和菓子屋が入手することになるわけである。(P94〜95)
◯ところが、この渋を切るのには、いろいろな切り方がある。豆を炊いて、沸騰が始まる前に切るのか? 沸騰してから切るのか? 沸騰して何分経過したら切るのか? 何度切るのか? それは職人によって異なる。その年によって小豆の出来が違うのであるから、当然それに合わせて微妙に渋の切り方は変わってくる。それが、餡は百人が作れば百の味になると言われる理由である。(P96)
◯たとえ親方から教えられ、模倣が技術に進化したとしても、同じものは作れない。そこには必然、弟子である和菓子職人の個性が生じてくる。ある意味でその個性を知ることも和菓子の愉しみといえよう。
手づくりの技とは「ふたつと同じものができない面白味」と「ふたつと同じものが作れない怖さ」が同居するものである。同じ和菓子職人が作った同じ様な形の和菓子であっても、ひとつひとつには微妙な違いがある。(P98〜99)
◯洋菓子は次から次へと、チョコレートであれ、果物であれ、上に、上にと積み上げて、まるで満艦飾のように飾り立てる。一方、和菓子は美味しさの源である“餡”は内に包まれるし、栗であれ、梅であれ、ほとんどのものは外からは見えない内側に存在するのである。
これは少々うがった物言いではあるが、包み込む故に和菓子の持つ調和の味を生み出しているといえなくもない。(P174)
藪光生先生の「和菓子」
あまり多くを書き過ぎると、よくないですね。・・・無断転載をお許しください。読み終えた「和菓子」は、付箋だらけになりました。本からの抜き出しは自分の「ことだま貼」に‥‥。あぁ、藪先生のお話をもう一度お聞きしたいです。
コメント
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2017年 9月 07日トラックバック:2016 国際マメ年 | 豆なブログ
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2019年 9月 10日
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