豆は「しあわせ」のタネである

いんげん豆のこと

2020.04.03

2件

4月3日は、いんげん豆の日

今日、4月3日は隠元禅師が亡くなられた日だから「いんげん豆の日」なのだそうです。

〜 黄檗宗を開いた隠元禅師は中国福建省のご出身で、1654年63歳で日本に来られました。

いんげん豆、スイカ、蓮根、孟宗竹、木魚、煎茶道、普茶料理など、たくさんのものを日本に伝えられました 〜と、ネットに出てきます。

隠元禅師が、その豆を日本に持ち込まれたときは、まだ「隠元豆/いんげんまめ」という名前は無かったと思うのです。日本の人たちが、見たことも食べたこともない豆を持ち込んだから、その豆がおいしかったから、食べた人が「この豆はおいしいよ」とみんなに伝えたいと思って、人々は豆を隠元禅師の名で呼ぶようになった?

隠元禅師が清(しん:当時の中国の名前)から持って来た豆だから、「隠元さんが持って来た豆」→「隠元さんの豆」→「いんげん豆」と呼ぶようになったのでしょう。

2020年の今も、おそらく1900年頃もそうだと思うのですが、「いんげん豆」と呼ぶ豆に、初めは名前が無かったはずです。ふふふ。面白い。

 

隠元禅師が持って来た「いんげん豆」の正体は?

現世で、いんげん豆というと、みどり色した野菜豆と、白や赤・黒・模様入りなどの乾物の豆のことを指します。

野菜豆では、上の写真の三度豆や、さやいんげん、絹さや、モロッコいんげんなどがインゲン豆の仲間。

乾燥豆は、写真の手亡豆、金時豆、白金時、黒いんげん、紅しぼり、虎豆、うずら豆などがインゲン豆の仲間。

野菜豆が成長して、莢の中の豆粒が大きくなって、完熟してカラカラに乾いてタネをとると、そのタネが乾物の豆になるのです。

さて、隠元禅師が渡来するとき持って来られた豆は何だったのでしょう? 一説によると「藤豆/フジマメを持ち込んだから、関西の一部では藤豆をインゲン豆と呼ぶ」とも記されています。

でも、悪いけど違うと思います。

隠元禅師が持ち込まれたのは、乾物のいんげん豆のタネ。乾燥豆ですよ。そうしないと、あの時代は、舟で何日も波風にあおられて命がけで日本に来るのに、野菜豆ではしなびてしまいます。たとえ濡れ新聞紙のような紙に包んで持って来たとしても限界があります。

隠元禅師が日本に持って来て、その豆に「いんげん豆」と名前がつくほど皆に食べられるためには、タネをまいてたくさんの実りがないことには、多くの人が食べることはできません。

現代のようにSNSがあるはずもなく、少人数が食べて「おいしかったね」と口にし、瓦版に書いたとしても、禅師の名を冠す豆になるはずがない‥‥。と、21世紀の豆好きは思うのであります。

黄檗宗の書物などめくったら、残っているのでしょうか?

隠元禅師のいんげん豆の真実が知りたい。ご存知の方がおられましたら、教えてください。

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コメント

    • よくせん
    • 2020年 6月 23日

    こんにちは。煎茶道を習ってて、隠元さんのことを勉強してる最中です!しかしインゲン豆の種類までは気にしたことがなかった、、、隠元さんの萬福寺の資料館には、当時のままの急須や茶葉が展示されてましたね。また何か判明したらブログ書いてくださいね♪

      • Nodoka
      • 2020年 6月 23日

      よくせん さま コメントありがとうございます。
      普茶料理の萬福寺ですね。気になりながら、まだ行ったことがありません。
      コメントを読み、資料館に行ってみたくなりました。
      お役に立つかどうかわかりませんが、いんげん豆については下記に、うだうだ書いております。
      https://mame-lab.jp/?s=%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%92%E3%82%93%E8%B1%86

      隠元禅師のこと、意識してみます。ありがとうございます。

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豆・豆料理探検家
豆料理アドバイザー

五木 のどか

福岡県生まれ、京都市在住。個人事務所 who(ふー)所属。豆の原稿執筆、レシピ開発、販売促進などに携わる傍ら、豆好きな人を増やすため、豆料理の楽しさやおいしさ、使い方を伝える活動を展開している。 | 詳細はこちら
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